2013-02-16

ジャーナリズムについて

仕事ともコミュニティ活動とも直接関係ないが、ジャーナリズムについて昔からずっと考えていた。

ジャーナリストになりたかったわけではないが、ジャーナリストは何となくあこがれていたところがあった。命をかけてまで報道しなければいけないこととは何なのだろうと漠然と考えていたし、報道の自由と民主主義が結びついていることは何となく分かってはいたけれども、報道の自由が当たり前となっている日本にいて、それを実感することはできなかった。

しかし、中国の大気汚染の問題を目の当たりにして、ジャーナリズムの重要性について実感が湧いてきた。あのスモッグの状態を見てこのままでいいとは誰も思っていないだろう。しかし、今の中国で公害を止めるためには政府(中国共産党)が規制を強くするしかない。個人の努力ではすぐに限界が来てしまう。(デモで国を動かせるか?)

粉じんの排出には利害関係が絡んでいるため、政府に頼っていると埒があかない可能性がある。排ガス規制を行うと利益が下がるので袖の下を渡して見逃してもらうなどという行為が横行しそうだ。

そういうときに力を発揮するのがジャーナリズムだ。報道の自由があれば、問題点を掘り下げて民衆に伝えることができる。報道によって気付きを得た民衆は行動を起こすことができる。そのベクトルが一つの方向に向かえばそれは大きな力となる。

公害をなくすためには、そのような民衆の力の結集が必要だろう。報道の自由を奪われた状況では目的が成就できるとは思えない。

北京で起きている公害は人の健康に関わる問題であることは外から見ていても分かる。何十万人という人の健康の悪化を止められるのはジャーナリズムではないかと思うし、逆に言えば、報道の自由がない状況、報道にバイアスがかかる世界では民衆の願いが叶えられないように思う。

日本におけるジャーナリズムとは

冒頭で、日本には報道の自由があると書いた。基本的にはそうかもしれないが、バイアスのかかっている情報とそうでない情報を見分ける力は弱いと感じている。個々の意見を持って情報に対峙するというより、来るものをそのまま受け入れてしまう無防備さが目立つ。

マスコミも情報の受信者の特性に共鳴していて、一つの報道に対して、各社とも同じ方向に情報を発信する傾向がある。

例えば、テレビ、ラジオ、雑誌、インターネット等の情報には大抵の場合スポンサーがいる。情報の購読者が売り上げの100%であれば、情報の発信者は購読者の利益を考えるが、公告主がいれば、公告主に不利益な情報は流さない。

雑誌の購読者が毎月金を払っていたとしても、日本の購読者はおとなしいので文句があっても黙っているから、公告主の意見の方がより強く扱われる。編集部は営業担当から「公告主がこう言っている」と言われるとなかなか逆らえない。

だから、マスコミ=ジャーナリズムではない。自分はテレビや雑誌の情報に触れるとき、裏(スポンサーの影響)があるのかないのかを想像するようにしている。

ところで、最近の民放のテレビ番組のコマーシャルには本当にうんざりしている。番組の中で一位を発表したり、ここぞというシーンの直前で番組が途切れ、CMが長々と入る。10年前はそんなにえげつない番組構成ではなかった。昔ではあり得なかったが、7時とか、8時にはすでに番組が始まっている。これは、時間ぴったりにチャンネルを合わせたときに別のチャンネルに変えられないように引き留めるためだろう。

テレビ番組の構成の変化を制作者側の視点でなぜ?と考えると、いろいろなことが見えてくる。番組が盛り上がる直前でCMを入れるのは、そうしないとCMを見てくれない、チャンネルを変えられてしまうからだろう。

リモコンで簡単にチャンネルを変えることができるので、ザッピングしながらテレビを見ている人は相当増えたと思う。番組のおもしろいところだけ見られてCMを見てもらえないと商品が売れない。一回30秒で何十万円も支払っているのに商品の売り上げにつながらなかったら、番組の制作費を出す意味がない。

それでなくても、広告費はインターネット公告にシフトしているのに、テレビや雑誌の広告効果が落ちてくるとスポンサーは減るし、スポンサーが出せる広告費も減ってくる。

だから、テレビ局はCMを見て貰うために必死なのだ。番組の構成を冷静に観察していると、その必死さ加減が伝わってくるので、ほとほとうんざりしてくる。コマーシャルの入らないNHKGやEテレでおもしろい番組があるとほっとする。ラジオもテレビほどCMが多くないのでよい。テレビのCMの多さが異常なのだ。制作費を多くのスポンサーで負担しないと成り立たなくなったのだろう。

テレビ朝日の「お試しかっ!」という番組をご存じだろうか。最近、この手の商品や商品を作る工程をレポートする番組や商品のランキング対決番組が増えている。なぜか。CMではなく、番組の中で商品を宣伝できるから、また、スポンサーにとっては非常に宣伝効果が高いからだ。

2013年01月28日放送の帰れま10「とんかつ新宿さぼてん」編の翌日、地元の駅前のさぼてんでは午前中だけで普段の1日分の売り上げがあった。(店の人の話)

番組がおもしろくてスポンサーの売り上げになるのならこれはWin & Win の関係になる。帰れま10の番組にさぼてんのCMは流れていなくても、制作費を負担しているのは間違いない。テレビ朝日はこの手の番組が受けているせいか視聴率も稼いでいて、おもしろおかしい番組で勝負してきたフジテレビは苦戦しているらしい。

ここで言いたかったのは、情報を得るときはその情報にはひもが付いていないかどうか考える必要があるということである。悪意があろうとなかろうとひもが見えているのといないのでは、情報の受け取り方を変えなければいけない。

Wikipedia は紐が付いていないので、たまに寄付のお願いが掲示されるが、よくお世話になっているのでわずかならがでも寄付に応じるようにしている。

ビジネス誌に金を払ってニュースを掲載して貰い、情報を受け取っているものが情報にくっついている紐に気づかず、あたかも自分が発見した客観的な情報のように吹聴するのを見ることもある。これは正確にはジャーナリズムではない。意図的に流された紐付きの情報を意図通りに横に流しているだけだ。

だから、紐付きの情報を流す人、紐付きであることを認識していながら情報を流す人はジャーナリストなのだろうかということを、ずっと考えている。ジャーナリストだって、生きていくためには稼がないといけないからスポンサーは必要なはずだ。だけと、万が一スポンサーに不利な情報を報道しなければいけない場面がきたら、ジャーナリストはどう行動するのだろうと思う。

ようするに自分の倫理観と、生きていくための報酬を天秤にかけなければいけない時がきたら、ジャーナリストはどっちを取るのだろうかということに興味があるのだ。

組織の中におけるジャーナリズムとは

このことはジャーナリストだけの問題ではない。サラリーマンなら誰にでもあり得る話だ。例えば、自分の会社が食品の原材料の偽装をしていることを知っていたとする。しかし、それによって会社の売り上げが上がっており、給料はその売り上げから出ている。その事実を告発するのか、しないのか、どうする。といった問題だ。

単純なコンプライアンスの問題だけではない。原材料の偽装だけでなく、健康被害にいたるような薬剤を使っていることを知った場合はどうするか。自分や自分の家族には「その商品は買うな」と注意を促し、商品の購入者の健康被害は気にしないといった行動を取るのか。自分の良心は痛まないのか。かつてある農家が農薬を使わない自宅用の野菜を育てているという話を聞いてことがある。

ジャーナリズムはそういう事実を明らかにすることが仕事であり、それがジャーナリストの社会に対する重要な役目なのだと思う。

転じて、組織の中で多かれ少なかれ、これと似たような状況は日々起こっている。自分の倫理観に照らし合わせたときに、言った方がいいのか言わない方がいいのか迷うようなときだ。組織の一員として黙っていた方が自分に有利に働くこともある。しかし、自分は、顧客満足という価値に照らし合わせたときにマイナスに働くと判断されるときは意見を言うことに躊躇はしないようにしている。それがこれまで述べてきたジャーナリズムの精神に通じると思っているからだ。

スモッグでかすんだ空気で呼吸をしながら、「大丈夫」などと言われても、そのまま黙っていてはいけない。

これは、建設的な批判(Constructive Criticism)でもないと思う。黙っていてはいけない時に利害や上下関係を超えて発言しなければいけない時があることなんだろうと考える。技術者倫理を教えるところ、場面もあるように思うが、それって教わるものかなと思う。エンジニアたるもの、一度は突き詰めて自分の考えを整理しておく必要があると思う。

第二のガラパゴス

このブログ記事の最後に、建設的な批判になればと思って書いておきたいことがある。これがジャーナリズムなのかどうかは分からない。

日本の製造業者は目先の価値で近々の競争に勝つことしか考えていないのでないかと思うことがある。家電製品は一年に一回か二回、モデルチェンジをする。

いかにも画期的な機能を追加したように宣伝している。これまで自分は10万円を超えるような家電を買うときに少しでも新しい機能の付いているものを選んでいたが、買い換えのサイクルが10年くらいであることに気がつき、考え方を変えるようにした。

掃除のしやすさメインテナンス性、耐久性、基本機能、基本性能を重視するようにした。そういう目でみると、商品を見るところが変わってきて、目先の付加価値にとらわれないようになる。

そして、企業のマーケティング担当が短期的な売り上げを上げるために、開発チームに何を要求してきたのかが見えてくる。簡単に言えば、新製品の一押しとしている機能がそれだ。

それが、冷静に考えてあってもなくても基本機能、基本性能に影響を及ぼさないのなら、それは目先の付加価値であるし、基本機能、基本性能の向上に寄与しているのなら、画期的なことであり、それは開発者の底力だ。毎年、パラダイムシフトが起こるはずもないので、大きなネタがないときは、目先の機能アップを大々的に宣伝するしかない。

底力で勝負している会社と目先の付加価値で勝負している会社は、不景気になるとその違いがはっきりしてくる。地道に基本性能の向上に努力している企業の売り上げは安定しており、目先の付加価値を追っかけている企業は負けが込んでくる。景気が悪くなると消費者は目先の目新しさを切り捨ているようになるからだ。それに気がつかず、基礎技術に明るくないマーケティングチームが商品開発を主導していると、足下をすくわれる。

同様に最近引っかかっているのが、プリクラッシュブレーキシステムのコマーシャルだ。トヨタ以外の自動車メーカーが一斉にプリクラッシュブレーキステムの宣伝を始めたように見える。(トヨタがやらないのは何か理由があるのだろう)

自分がもっとも気になっているのは「みんな一斉に」という点だ。ブレーキをアシストする機能の研究はどのメーカーも何年も前から研究はしていたのだろうから、カードを切る準備はできていたと思う。

でも、今になって一斉に宣伝し始めたのはなぜか。この状況の裏にある「ひも」はこうではないかと想像する。

スバルが最初に iSightで、大々的にプリクラッシュブレーキステムのCMを流した。自動車会社のマーケティング担当またはボードメンバーは、それを見て、これに乗り遅れると取り残される、株主から「なぜやらないのか」と攻められる。だから、「うちもやろう」ということになった。

CMを担当する広告代理店が iSight の公告を見て、「CMの最後に一瞬免責事項を出していますよ」「こちらも出しておいた方がよくないですか」と進言し、「そうだな。あっちもやっているのなら、こっちもやっておこうか」ということになった。

もし、こんなシナリオでトヨタを除く各社がCMを始めたたのなら、これは携帯電話に続く第二のガラパゴスじゃないのかと感じる。

あそこがやり出したから「それ追いつけ」という日本の企業特有の目先のマーケティング、目先の付加価値でしか勝負できない日本の会社の典型的なやり方ではないのか。

こんなことがまかり通っているのは日本人が世界一厳しい消費者になりきれていないからではないか。自動車メーカー以外がスポンサーになって、プリクラッシュブレーキシステムの各車種の評価実験をやらないのかと思う。事故が起きてからやるのだろうか。

アメリカでも同じようなCMを流しているのだろうか。ヨーロッパはどうなのか。日本でしかやっていないのなら、日本人は受け身だから、情報流しておけばブームになると思っているのではないか。一方的な情報に煽られているだけじゃないのか。自動車メーカーは本当に消費者のことを考えているのか。目先の付加価値を追求して基本性能に対するリスクを高めていないか。これこそ悪しき「メイドインジャパン的ガラパゴス」じゃないのか。

走る、曲がる、止まるといった車の基本性能は盤石なのか。底力は向上しているのか。プリクラッシュブレーキシステムは車の「止まる」の基本機能・基本性能の中でどのような位置づけなのか。

このことについて議論するジャーナリズムはないのか。自動車雑誌は公告主が自動車メーカーだから、正面から議論できないのか。

自動車産業という巨大な市場に何かしらの恩恵を得ている者は、誰もが何も言わないのか。

と、自分の中のジャーナリスト的心が叫んでいる。

※このブログにはスポンサーは付いていないので紐はないと思ってもらっていいのですが、疑いの目を持って読んでもらうことは重要だと思っています。

※底力の技術とはこういうことなんではないだろうか。『車体軽量化に向けた開発加速』こういう技術革新ってウケが悪いのかなと思う。そうだとしたら消費者の方の見る目が未熟なのだろう。

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